ラ・ネージュ東館
白馬の宿は「ラ・ネージュ東館」http://www.laneige-higashikan.com/
大学時代からの長い友人が働いている高級ホテルだ。
部屋にはジャグジーが付いていて、ディナーは別室を用意してくれていた。シャンパンの差し入れ付き。何から何まで至れり尽くせり。夜には宴会ができるように和室がついた部屋まで用意してくれていた。
調度品などは一流の物に触れることで、精神が研ぎ澄まされて非常にいい気分に浸れるのだが、ひとつだけ残念だったのは、食器。白馬という部分を意識したのかどうかは不明だが、食器が野暮ったい。食事は一流だっただけに悔やまれる。
長期滞在をして、ゆっくりと白馬の森を眺めながら過ごすには最高のホテルだ。ホスピタリティもしっかりしているし、しつこいが、食器以外は完璧だ。
ただ、自分にとっての最高の国内高級リゾートホテルは誰がなんと言おうと、「中禅寺金谷」以外にはありえないな。自分が生まれた時から通っている安心感。食の満足度は自分の中では超一流。
去年は6月に行っているので、今年もこのあたりを狙ってそろそろ予約しないと。
SKI 白馬八方尾根
Number 追憶の90's
Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 4/4号 [雑誌]
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2013/03/07
- メディア: 雑誌
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日本サッカー、幼少期の終わり
「声は大地から湧き上がっています。新しい時代の到来を求める声です。すべての人を魅了する夢、Jリーグ。夢を紡ぐ男たちは揃いました。今そこに、開幕の足音が聞こえます。1993年5月15日。ヴェルディ川崎対横浜マリノス。宿命の対決で幕は上がりました」 1993年5月Jリーグ開幕戦
「ついにイラク同点に追いつきました。日本2対2とされました。さあ、日本、急ぎたい。日本、急ぎたい。アメリカへの道、重い扉ついに、引き分けという形で終わってしまいました。日本。食い下がりましたが、日本、結局、最後の最後、同点に追いつかれて2対2。ついに、ラモスも・・・[絶句] 」 1993.10.28 W杯アメリカ大会アジア地区最終予選 日本VSイラク
「このピッチの上、円陣を組んで、今散った日本代表は私たちにとっては『彼ら』ではありません。これは、私たちそのものです」 1997.11.16 W杯フランス大会アジア第三代表決定戦 日本VSイラン
道 東山魁夷
「道」 東山魁夷 私の最も敬愛する日本画家である東山魁夷の代表作
ただ、ひたすらにこの画を眺めているだけで心が洗われる。
1950年(昭25年)絹本着色 一画
134.0×102.0cm 東京国立近代美術館蔵
十数年前、一度スケッチしたことがある青森の種差牧場の道を、どうしても描きたくなった魁夷は、昭和25年の夏、再びそこを訪れた。昔の記憶のなかの道と、眼の前にある道との間には、かなりの隔たりがあったが、彼の心のうちに出来上がっていた心象に焦点を絞って、しっとりと潤いのある道を描いた。
「この道を描いている時、これから歩いていく道と思っているうちに、時としては、いままでに辿って来た道として見えている場合もあった。絶望と希望とが織り交ざった道、遍歴の果てでもあり、新しく始まる道でもあった。未来への憧憬の道、また過去への郷愁を誘う道にもなった。しかし、遠くの丘の上の空を少し明るくして、遠くの道が、やや、右下りに画面の外へ消えていくようにすると、これから歩もうとする道という感じが強くなってくるのだった」
一筆一筆、積み上げるような丹念な描き方で仕上げたこの作品によって、魁夷の世界は一層深まっていった。第6回目日展出品作。
遥かに続いている野末の道、青森県種差海岸の牧場の道です。この道一本だけで絵にすることを始めは危惧しましたが、こつこつと積み重ねるような描き方で仕上げてゆきました。この作品のモティーフは十数年前の写生からで、灯台や放牧の馬等が見える風景でした。それを道と周囲の草叢だけに省略して、夏の早晨の空気の中に描いたのです。この作品の象徴する世界は私にとっては遍歴の果てでもあり、又、新しく始まる道でもあります。それは絶望と希望の織り交ぜられたものでありました。
「私の作品」「三彩」(臨時増刊)106号 1958年9月 P65
悲惨な戦争、次々と死んでいった肉親、たしかに私は未だ死への親愛感にとりつかれてはいる。が、今墓場から甦った者のように、私の眼は生へ向かって見開かれようとしている。(中略)これからは清澄な目で自然を見ることが出来るだろう。腰を落ち着けて制作に全力を注ぐことが出来るだろう。又そうであらねばならない。こう考えた時に、私の眼前におぼろげながら一筋の道が続いているのを見出すのでした。
「わが遍歴の山河」1957年、P167
根回しの効用
「根回し」とはもともと木の移植を容易にするために、根の回りを処理しておくことをいうのだが、転じて物事が円滑に進むように、あらかじめ手を打っておくことを意味するようになった。一般には、会議で事を決定したり、指示、命令や依頼をする前に、事前に相手に話しをして納得を取り付けることを指す。
「根回し」という言葉から、陰湿で密室政治的なイメージを持つ人が少なくないと思う。確かに「根回し」にすべてを依存し、公の議論をすべて排除することがいいはずもないが、日本人の精神構造の中でこの「根回し」が重要な位置を占め、ビジネスの社会で依然として要求されていることも事実なのである。
「根回しなどという姑息な手段は潔しとしない。あくまで正攻法でいくべきだ」という人もいるかもしれないが、これでは少なくとも日本においては、ビジネスがスムーズに進行しないことを覚悟しておいた方がいい。
日本の社会で「根回し」が非常に重要な意味を持つのは、日本人が元来農耕型民族であって、基本的に同質の価値観を持ち、何事も腹を割って話せばわかるはずだという社会を構成しているからであろう。このため日本人は公の場所で議論することが嫌いだし、それが下手な民族だとも言える。公の場所はストレスのかかる場だから、そんなところで判断を求められても困る、もっと気楽な状態で判断させてほしいと考える性向を大方の日本人はもっているようである。なかには事前に話しがなかったからといって、メンツにこだわる人もいるに違いない。
一方、西欧社会のような他民族、騎馬型社会では、相手の感情にまで入り込んだ根回しは基本的になりたたない。公の場所で「正義」と「正義」をぶつけあって堂々と議論する、いわゆるディベイトが得意ともなり、それを美徳とするようになったといえるだろう。
いずれにせよ、「日本社会」と「根回し」とが密接に結びついている以上、「根回し」はなくなるものでもないし、またこれに特に劣等感を持つ必要もないと思う.したがって、会社の中でも、部門間の根回し、上下の根回し、また社外の関係先との根回しは必要に応じて行なわねばなるまい。
ビジネスの要諦は人を動かすことにある。人を動かす一番の決め手は、相手を納得させることである。有無をいわせぬ命令や、公の席での通り一遍の依頼では人は動かないが、誠意を尽くした説得や説明でひとたび納得すれば、人はすぐさま行動を起こす。根回しの必要性の原理・原則はここにある。実は西欧社会においてもこの意味での根回しは重要とされているし、実際に大いに行われているのである。ロビイストという名称で呼ばれる人達は根回しの専門家だし、国連等の国際機関等ではほとんどアングラのレベルでことは決していると言われている。
ところで「根回し」さえすれば公の場が必要でないというわけではない。公の場はきちんと議論・ディベイトをし、あるいは正式な指示、命令、依頼をしなければならないのは、言うまでもない。(K)
麻雀
【書評】無私の日本人 -穀田屋十三郎-
- 作者: 磯田道史
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2012/10/25
- メディア: 単行本
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「武士の家計簿」の著者が記す、江戸時代を生きた無名無私の人々を描いた史書。小説のような臨場感で一気に読み終えた。
18世紀半ばの江戸時代、貧困に喘ぐ仙台藩吉岡宿において、造り酒屋の穀田屋十三郎と茶屋の菅原屋篤平治を中心に村の8人の同志が、武士に金を貸し利子で郷里を潤すという前代未聞の大事業を成し遂げた話である。
この仙台市吉岡宿に残された「国恩記」という書物に記された古文書を元に作者が小説のように仕立てた読み物である。普段、歴史小説をあまり読みなれておらず、最初はやや難儀するかに思われたが、実に面白かった。
伊達藩の他藩とは違った特性、陸奥・東北の歴史性、江戸時代における日本人の風土性を随所にエピソードを交えて紹介してくれているところが興味深い。
たとえば、「身分相応」。
すなわち、江戸という社会は、日本史上に存在したほかのいかなる社会とも違い、「身分相応」の意識でもって保たれていた。身分というものがあり、人がその身分に応じた行動を取る約束事で成り立っていた社会である。その開祖、徳川家康は「味噌は味噌臭きがよく、武士は武士臭きがよし」という言葉を好んだ。ようするに「身分に応じた振る舞いをせよ」ということである。武士が見事に腹を切るのも、庄屋が身を捨てて村人を守るのも、この身分相応の原理に従ったものであり、この観念は、江戸時代における最も支配力の強い人間の行動原理であった。身分相応の行動を取るのが、あたりまえであり、それに従わぬものは、世間から容赦なく、卑怯者、無道者の烙印を押され、白眼視された。
または、「公共心」
すなわち、江戸時代の日本人の「公共心」は世代をタテにつらぬく責任感に支えられていた。(そんなことをしては、御先祖様にあわせる顔がない。きちんとしなければ、子や孫に申し訳ない)という感情であった。
さらに「家意識」
「家意識」とは、家の永続、子々孫々の繁栄こそ最高の価値と考える一種の宗教である。この宗教は「仏」と称して「仏」ではなく先祖をまつる先祖教であり、同時に、子孫教でもあった。子孫が絶え、先祖の墓が無縁仏になることを極端に恐れた。江戸時代を通じて、日本人は庶民まで、この国民宗教に入信していった。室町時代までは、家の墓域を持つことはおろか、墓に個人の名を刻むことさえ珍しかったが、江戸時代になると、「誰が墓を守るのか」が問題になり、「墓を守る子孫」の護持が絶対の目的になった。それゆえ、「現世のおのれか、末世の子孫か」と、迫られれば、たいていの人間は後者をとった。
他にも、江戸時代の統治制度、伊達藩の官僚主義、その中で無名な村民の意を汲んだ奇特なお代官の橋本権右衛門、この物語に出場する時代背景や名も無き大人物から、「古来、心ある者には才知がなく、才知ある者には心がない」というなどという含蓄のある言葉まで、宝石のように至るページに埋め込まれた金言をページをめくりながら出会える喜び。
物語としてもぐっと熱くなるシーン、情景を伴って心に迫ってくる。
われわれの知らない強く美しい日本人がいた。
こうした人物、歴史に寄りかかることなく、まさに平成の世に生きるわれわれひとりひとりが穀田屋十三郎となって、困窮する日本を救うために、子孫に何が残せるのかを真剣に考えなければならない。